寄り添える介護職員を目指す!

自身が躁鬱で、日々生きることとは何かと問いながら、介護という仕事に携わり、人生の先輩に生と死を学ぶ。介護現場での赤裸々な話をしていきたい。もっと介護現場に内部、外部から意見を貰って入居者様、利用者様に寄り添える介護現場をつくりたい。その想いでブログを書くことにしました。

施設の日常

朝起きて、ご飯食べて
10時頃に体操を少し。

行ける時は散歩へ15分ほど。

昼食。入浴(1人に対し2日~3日に1度)

夕食。就寝。

自立してる人は、トイレに行ったりテレビ観たり
入居者様同士でお話。
自立出来てない人は、2~3時間のトイレ誘導。

これが私の施設の基本です。

何をする訳でもない、ただ施設で
ぼんやりすごして1日が終わる。

何かしたいと入居者様から訴えがあっても
ダメ!とか出来るわけないでしょ!とか
そんな対応だ。

帰宅願望が強いと、外にすら出さない。
チャレンジしてみたら、管理者から怒られる。

今ある能力を生かすこともない

そりゃあ介護度も落ちるよ…。。

日々悶々としながら仕事してた。
仕事に少し慣れたころ、意見を言えるようになった。

花壇に、お花を植えていいですか?
お花の好きな入居者様と一緒にお花を買ってきていいですか?

この眠剤を飲むと、落ち着かなくなるから抜いていいですか?

など、私にも出来ることを提案していけるようになった。

それを当時のフロアの職員さんは、いいよ。やってみよう!って言ってくれた。

研修とのギャップ

介護現場に出て、感じたことは

研修で習ったこととのギャプでした。

本人の意思を尊重する。尊厳が大事だと学んだ研修。

でも、実際は尊厳なんて保たれてないこと…。
本人の意思を尊重なんて出来てないことだった。

集団生活そのもの。

今までの生活を保つことなんて、ほぼ出来ない。
外に出るのも、数10分…。

こんな生活を誰がしたいんだろう。。

それが第1に感じたことだった。

実際、認知症だからすぐに忘れてしまう。
怒られても、その事実を本人は忘れてしまうのだ。

介護理念ってなんだろう。
私はすぐに、大きな壁にぶつかってしまう。

自分だったら…親だったら…そう考えると
目の前にある現状が受け入れられなかった。

今週のお題

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」

イムリーなお題だなぁ(σ・ω・)σ

私は、両方の祖父の顔は知らない。
生まれる前に亡くなった祖父、生後10ヶ月で亡くなった祖父。

両方の祖母は、数回会っただけで、大人になって再会したのは亡くなった時だった。

だから、想い出がほとんどない。

でも介護の仕事を始めてから、私には沢山のおじいちゃん、おばあちゃんがいる。

戦前戦後を生き抜いた世代。
尊敬することが沢山。

今の世代には耐えられないだろうなと感じる。

苦労してきた世代だからこそ接するのに難しい時もあるけど

今という時を穏やかに、楽しく過ごせるお手伝いができたらと思う。

私の孫かね?
あなたが居てくれてよかった。
私の片想いじゃないかしら?

そう伝えてくれる、おじいちゃん、おばあちゃんに元気をもらい

がたがた言うな
あっちいけ
と怒り出す、おじいちゃん、おばあちゃんから
学ぶ力を与えてもらってます。

今の私にとっての、おじいちゃん、おばあちゃんは
血の繋がりはないけど、大好きです。

元気でいて欲しい。長生きしてほしい。
そのために私は、今日もお手伝いさせていただきます!

初任者研修を受けて、いざ介護現場へ

介護に就こうと思ったのは
この先も無くならない職種っていうことが大きかった。

人の為とか、そんな綺麗事で選んでなかった。

最低限の資格をと思い、初任者研修を終了し、
近くにある施設の面接を受けた。

どこを基準に選べばいいのかなんてわからなくて
最初に受けた施設が、採用になりそこに決めた。

今思えば、人手不足の業界だから
ほぼ受かるんですよね。

現場に出たことなんて無かった私は
初日から何をしていいのか、入居者様にどう接していいのかわからず、オロオロしてばかりだった。

人に触れるのは怖い。
ましてや高年齢者の方々だし、1人1人症状も違う。認知症でもタイプは色々。

新人拒否もある。慣れてないのが相手もわかるから
〇〇さんがいい。と面と向かって言われた時は
心も折れそうになった。

気が小さな私は、笑っているしかなかった。
怖いなって思う気持ちを、笑うことで誤魔化していた。

私自身のこと。その2

ODで嘔吐、翌日は丸々1日起き上がれず
目眩との戦い…。

子供にご飯を作れない、話を聞けない。
掃除もできない、何もやる気が起きず泣いてリスカして、過呼吸が起きて…。

このままでは駄目だと思い、メンタルクリニックへ行くことにした。

そこで鬱診断を受けて、一時期 薬を飲んだこと
再度チェック表を記入し、看護師さんと先生と話して出た結果は、躁鬱病

また精神安定剤に頼ることになった。

処方された薬を飲むも、アレルギー反応が出て
薬を変えて、効き目が薄いから錠数は増えた。
それでも、気持ちは一向に晴れない。
むしろ、生きてることが申し訳なくなり死にたい願望は増すばかり…。

子供たちも成長するにつれて、こんな母親を見るのはどんな辛いだろう…。
元旦那様とたくさん話し合った…離婚は避けたいと言われたが、人と居ることが苦痛で苦痛で仕方なかった。

結果的に、私の精神的なことと経済的な問題で親権は元旦那様になり、離婚が決まった。

ずっと一緒にいた、何よりも大切な子供たちとの別れ。それでも、私はまだ自分の弱さと向き合えずにいた。

離婚が決まり、子どもたちと離れ実家に戻ることも考えたが、私はとにかく一人にならないといけないと思った。

住み慣れた場所を離れ、1人になり
生きている意味もわからないまま、死にきれない中途半端な私は、生きていくためにと介護の道を選ぶことにした。

私自身のこと。その1

介護職につくきっかけは、離婚だった。

小学高学年より、リストカットをし始め
それが2年ほど前まで止められなかった。

ずっと切り続けるわけではないけど
切ることで精神が安定する為、不安定な日々が続くと、リスカして落ち着かせていた。

原因はなんだったのか、と聞かれると
イジメだったのかなと今は思う。。

当時の記憶は曖昧で同級生もほとんど名前も覚えてないし顔みても、居たっけ?ってぐらい。

リスカなんて死ぬ気でやってる訳じゃないし、死ねないのも分かってた。
死にたい気持ちはあるけど、どこか怖い。
でも苦しくて逃げたい。
そんな時に、手首を切る痛みが心地よくて
溢れてくる血が、自分を保つ唯一の方法だった。

でもリスカに逃げてしまう、そんな自分を変えたくて…リスカをやめたくて、19の頃に精神科に受診。

結果は鬱。軽い精神安定剤を出してもらったが
気持ちは軽くなることもなくリスカをやめることもなかった。

そんな日々を過ごす中、
23歳で結婚、2人の子供に恵まれました。
その頃は育児に必死でリスカも止まっていたけど、だんだん育児ノイローゼみたいになってた。

ちゃんとした母親でいなきゃいけない、奥さんでいなきゃいけないと自己暗示をかけていた。
その結果、リスカに逃げるようになり
それだけでは物足りず、薬の過剰摂取(OD)をはじめた。

介護の実態

介護職について、まだ日は浅いですが

日々、葛藤する毎日です。

今の施設の中に、どれだけ利用者様、入居者様に寄り添った介護ができているのだろうか。

研修で、講師の話を聞くと
出来ていないことが大半。

施設でもモヤモヤすることが多い。

テレビの報道で虐待や不自然な死亡事故を目にすると胸が痛くなります。

私の勤める施設は虐待などはありません。
が、言葉がキツく、入居者様への対応がひどいなと思うことがあるのも事実。

そゆことをブログで綴って誰かの目に止まり
いい施設作り、いい施設選びが出来るといいなと思います。